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現在日本の代表的なテニスプレーヤーといえば
錦織圭選手ですね。

錦織選手の影響でテニス人口が増えたとも
言われています。

ですが同様にテニスだけでなくスポーツ界を
盛り上げようと注目を浴びているのは
松岡修造さんではないでしょうか。

以前発売したカレンダー「まいにち修造」
30万部を超え売上1位にもなりましたね。

昔の松岡さんを知らない人は単に熱い
スポーツコメンテーターだと思っているかも
しれませんが、

日本のテニス界で本当に偉大な人で素晴らしい
実績を残しています。

今回は松岡修造さんの生い立ちやテニスプレイヤー
としての実績などを紹介します。

松岡修造の家系と子供時代から高校、大学まで

松岡さんがもしテニスをしていなかったとしても
エリートコースを歩むことができたという話は結構有名ですが
ご存知でしょうか?

まず曽祖父が
阪急東宝グループ創業者の小林一三
祖父が東宝社長の松岡辰郎

父が東宝名誉会長の松岡功
母も宝塚歌劇団の星組男役スターの千波静

人がうらやむような家庭で育っています。

そして6歳の時に慶応義塾幼稚舎に進んだ
彼の人生はエリートが約束されているような
ものでした。

 

テニスは小学校5年生の時に本格的に
始め、テニススクールに通うと
テニスの才能が開花します。

実は松岡さんの父の功さんは

若い頃デビスカップの日本代表に選ばばれたこともあり
テニスの全日本年間ランキング3位になるほどの

トッププレイヤーの一人だったそうですが、
テニスを始めた当初修造さんは全く知らなかったようです。

小学校6年生で
全日本ジュニア12歳以下日本代表
ジュニア世界大会 日本代表
に選ばれます。

そして中等部時代には
[tip]全日本中学校選手権優勝
全日本ジュニア14歳以下優勝
関東中学大会優勝
関東ジュニア16歳以下優勝
関東ジュニア18歳以下優勝と[/tip]

テニスの日本ジュニアトップクラスの
選手に成長しました。

そのまま慶応義塾高等学校に進みますが
2年生の時にもっとテニスが上手になりたいと
自主退学

テニスの強豪・福岡県・柳川高校にご両親の
反対もありましたが、自分の意思で転校します。

そして転校した年の
インターハイで
シングルス、ダブルス、団体で優勝
見事三冠を達成しました。

その後世界的なテニスの名コーチ
ボブ・ブレッドに誘われ

柳川高校を中退して単身アメリカに
渡りました。

まさか30年後にこんな歌をうたうとは想像できなかったでしょうね。

ここでも当時柳川高校から推薦で大学に
進むと思っていた両親に反対されたようですが

アメリカのハイスクールに卒業し
アメリカの大学に進むという条件で

許可されたようです。

実際に英語もまともに話せない状態で
アメリカに渡りましたが、必死に勉強したかいも
あり、翌年には見事卒業しました。

その当時は錦織圭選手のように

アメリカにテニス留学する支援や
制度は無かったので

その先駆者としての苦悩や努力は
並大抵のものではなかったはずです。

松岡修造のプロテニスプレイヤーとしての実績

現在はアメリカにテニス留学をする日本人ならば
皆プロテニスプレイヤーになる目的で来ますが、

当時松岡さんは自分がプロに慣れると思っておらず
ただテニスが上手くなりたい一心でアメリカ留学を
しました。

そのためハイスクール卒業後アメリカの大学でテニスを
やる予定でしたが、

誰でもエントリーできるサテライトトーナメントなどの
実績をコーチのブレッドに評価され

プロ転向を勧められ19歳でプロデビューを
果たしました。

ここでもご両親に反対されて最終的には
なんとか説得はできたようですが、

プロ転向に際して親からの援助は一切行わない
条件でした。

プロデビュー当時松岡選手は
200kmを超すサーブを打つ唯一の日本人として
注目を集めます。

阪急ホールディングスの約束された将来を
蹴って、プロテニスになった松岡選手を

マスコミは「反骨の御曹司」と呼んでいました。

ジュニア時代から日本で実績を積み、アメリカにテニス留学で
順風満帆のテニス人生と思われるかも

しれませんが、ここからが茨の道でした。

[tip]当時のプロテニスの内訳は
ウィンブルドンなどのグランドスラム大会
トッププレイヤーが参加できるマスターズ大会
トッププレイヤーへの登竜門のチャレンジャー大会
若手のプロのサテライト大会[/tip]

4つのクラスに分かれていました。

当時松岡選手は一番下ののサテライト大会に
出場しましたが、予選落ちすると

次の大会まで練習コートから締め出されてしまいます。

朝5時に起きてコートを陣取っても、他の
プレイヤーから相手にされません。

予選落ちしてしかも当時テニス後進国の
日本の選手を誰も相手にはしてくれなかった
ようです。

日が暮れるまでストレッチ体操しかできなかった
こともあったとか。

 

当時のことを松岡選手は
「誰も目を見てくれない。無視でしたから。」
「なんだこのアジアの野郎!と思われていたでしょうね。」

「練習のパートナーになってくれとお願いしても

断られるわけですよ。だから練習できないんです。」

とテレビで当時を振り返っていました。

プロになった当初はテニスの賞金も少なく
幸いあるマネージメント会社と契約を結ぶことができて
1年300万円の資金活動を与えられたようですが、

移動する飛行機や宿泊も全部自腹で
10ヶ月程世界中を転戦するので

あっという間に資金は底をつきました。

また親からの援助の期待ができないため
なんとかお願いして他の選手の部屋の
床で寝たこともあったようです。

テニスは個人競技なので孤独と過酷さから
何度も辞めたいと思ったこともあったとか。

そんな苦しいツアー生活の中で
彼を支えたのがなんと

エースをねらえ

70年代の大人気テニス漫画の「エースをねらえ!」
主人公の岡ひろみを自分に重ね合わせ

どんなに辛くても乗り越える力をもらいました。

全18巻を世界中に持ち歩き、
時には試合会場でコートチェンジの間に

読んで勇気をもらうことも。

そして試合で形勢不利な時には
自分を奮い立たせるために

岡っ!(主人公の名前)」と叫んでいた時もあったようです。

その「エースをねらえ!」で一番好きな言葉が
「この一球は絶対無二の一球なり」だと言っています。
(実際に試合中にも叫んでいたことがありました)

こうして少しずつ力をつけていき、

20歳の時ノーシードで出場した
サントリージャパンオープン

3回戦で当時世界7位の大会第2シード
ミロスラフ・メチージュ
7-6、6-3のストレートで破る番狂わせを起こし、

自身初のツアーシングルベスト8に進出。

続く準々決勝ではランキング世界1位にもなったことがある
ジョン・マッケンローに敗れたものの

6-7、6-7の大接戦を演じました。

そしてプロになって3年目の21歳には
世界ランキング60位まで上昇しました。

[tip]今でこそ錦織選手が常にランキング10位以内ですが
当時は100位切ることは本当に凄いことでした。

現在(2017年5月29日のランキング発表時点)
でも錦織選手の次は西岡良仁選手の70位です。[/tip]

このように少しずつ実績を積んでいった松岡選手でしたが、
苦難が襲います。

練習中に両膝の半月板を損傷。
あまりの痛みに立っていることもできず

2度の手術を受け約10ヶ月間の治療のため
コートから遠ざかりました。

その間に60位だった世界ランキングは
445位まで落ちてしまいましたが

それでも努力のかいあり135位まで戻したのですが
今度は復帰してから9ヶ月後の試合で

左足の靭帯を全て断裂してしまいました。(当時22歳)

テニス生命を失うほどの大ケガでしたが、
逆境を乗り越えるたびに人は強くなれると

信じて上半身の強化に努めました。

そして23歳になり再びカムバックし、
1992年24歳の時に韓国オープンで

日本の男子選手として
初のATPツアーシングルス優勝を達成しました。

優勝した同じ年のイギリス・クイーンズ・クラブ選手権の
準決勝では当時世界ランキング2位第1シード

ステファン・エドベリ(エドバーグ)
1-6、7-6、10-8の大接戦を制して
番狂わせを演じました。

当時エドベリは世界ランキング1位にもなったことが
あるテニス界のスーパースターでした。

今だと現在世界ランキング1位のジョコビッチに
ランキング100位位の選手が勝利するようなものですから

本当に当時は「あのエドベリを破るなんて」と驚いたものです。

そして世界ランキングは自己最高の46位
記録しました。

この記録は2011年に錦織選手が更新するまで
20年近く日本人男子選手の最高位でした。

しかしまたまだ悲劇が襲います。
同年末に今度は伝染単核球症にかかり
2ヶ月の療養生活を強いられます。

せっかく這い上がってもその度に襲われる
怪我や病気でさすがにこの時は本当に落ち込み
涙が流れたそうです。

そしてその後はなかなか世界ランキング100位の
壁を突破することができず、周囲の期待も
薄くなっていき、

周りからは「もうそろそろ引退かな」とささやかれて
いたそうです。

それでも松岡選手は決して諦めず

1995年プロ9年目の27歳の時の
ウィンブルドン大会で偉業を成し遂げます。

ケガで欠場した代わりに出場のチャンスが
転がり込みました。

当時日本でも松岡選手はなかなかランキング
100位を突破できない時期だったため

あまり期待はされていませんでした。

しかし松岡選手は次々と勝ち進み
ベスト8に進出しました。

ウィンブルドン大会でベスト8に進出したのは
日本人男子62年ぶりの快挙です。

その試合の映像がこちら

テニス四大大会・グランドスラムのひとつ
イギリスのウィンブルドン大会ですが

イギリスはテニスの発祥地でしかも
ウィンブルドン大会は世界最古のテニストーナメントであり
最も格式高い大会

グランドスラムの中でプロのテニスプレイヤーならば
一番出場したい、そして優勝したい大会です。

その大会にノーシードでしかも代役で出場した
大会でベスト8というのは本当に快挙です。

(錦織選手もウィンブルドンではまだベスト16
が最高)

この大会の2年後引退をしましたが
松岡選手は日本テニス界のパイオニアとして

歴史に名を刻みました。



松岡修造がスポーツ応援に熱くなる理由

松岡さんは引退後に若手の指導や
テニスの解説だけではなく
テニス以外のスポーツの応援で

リポーターとして活躍していますが

なぜこんなに熱い応援をするのか
ご存知ですか?

その理由はベスト8に進出した
ウィンブルドン大会にあります。

3回戦で負ける寸前まで追い込まれて
いて

もうダメかもしれないという気持ちに
なった時に

外国人ばかりの観客席の中から
「修造!自分を信じていけー!」
いう日本語の応援を聞き

松岡選手は「俺はまだ負けていないんだ。
自分を信じてやろうぜ」
気づかせてくれたそうです。

「この応援の一言がなければ僕の
ベスト8は絶対にないんです」

「今でも本当に感謝したいです。その人には」

そして

「応援というのは選手にとって本当に力に
なるということが分かっているから

僕はオリンピックを含め選手を応援するのに
命懸けになるんですよ」
と言っています。

他人の目にどう映ろうと構わない。
自分の言葉か人の力になることを

信じて松岡修造さんはあんなに
熱く応援をしているのですね。

松岡修造のまとめ

今錦織選手が世界ランキング4位ですが

やはり松岡さんがいなければ
ここまで早い段階で来れなかったのでは
ないかと思っています。

直接指導した時間はとても短いですが
世界を経験した人からのアドバイスというのは

錦織選手にとってはとても大きな体験と
なってその後のテニス人生に大きく
影響していると思います。

そんな凄い松岡さんですが
私がおすすめするのは

松岡さんのホームページです。
落ち込んでいる時に見ると

元気になるので是非
一度みてください。

松岡修造オフィシャルホームページ

私は松岡さんのテニスの解説が
大好きです。

決して熱くならず、日本んの選手に対して
偏った応援のような解説もせずに

冷静に流れを分析する姿は

純粋にテニスを楽しみながら
見ることができます。

錦織選手だけではなく

松岡さんの解説にも
今後も注目しましょう。